スポンサーリンク

神仏習合について

専門用語集
スポンサーリンク

神仏習合(しんぶつしゅうごう)とはなんでしょう?

詳細を解説します。

神仏習合(しんぶつしゅうごう)とは?

 

 神仏習合について・神仏習合の概要

埼玉県飯能市にある竹寺は、
東日本で唯一、
神仏分離政策を逃れた寺として有名です。

 

山奥であり地元の信仰が篤かったから、
神と仏が分離されず、
明治以前のお寺の形態を残しています。

 

どのようなお寺なのでしょうか。

 

お寺の参道を進むと、
鳥居が立っており、
鳥居には注連縄の代わりに、
大祓の輪くぐり神事で使われる
大きな茅の輪が付けられています。

 

最澄の弟子・慈覚大師、円仁
修業場として建立させたお寺で、
御本尊牛頭天皇(ごずてんのう)です。

 

天台宗のお寺で、山岳信仰修験場として栄えました。

 

牛頭天皇と同格と見なされる
蘇民将来伝説(そみんしょうらいでんせつ)の
武塔天神(むとうてんじん)も祀られています。

 

本サイトの大祓で紹介した通り、
輪くぐり神事蘇民将来由来も確認できるので、
ご確認ください。

 

祇園信仰(ぎおんしんこう)に基づく、
京都八坂神社兵庫県広峯神社から
勧請された神社にしか見えないのですが、
立派なお寺
なのです。

 

北関東の一部は
神仏分離が上手く進行しなかった地域として
良く取り上げられます。

 

神道式葬式をすると言っても、
お坊さん読経している中、
神主お祓いをするのです。

 

現在でも、鳥居のある寺があったり、
神社でお経があげられたり
します。

 

江戸時代までは、
神様も仏様も同じで、
神社が同時に建てられたと
説明されているんです。

 

どうして、
こうなってしまったのでしょうか。

 

一言でいえば、
神仏習合によるものなのです。

 

神仏習合とは、
仏教と神道は同一とする考え方で、
神仏習合の考え方からすると、
寺と神社が同時に建っても
おかしくない。

 

神仏習合と本地垂迹説
同一の物とみなされている感じがあるので
断っておきます。

 

本地垂迹説とは
神様と仏様が同じという考え方
で、
竹寺の例では、
お釈迦様が亡くなった場所に建てられた
祇園精舎の守り神である
牛頭天皇スサノオが同一であるという物です。

 

このように神仏習合は難解で
理解に苦しみますね。

 

いきなり神仏習合を説明されても、
なんのこっちゃとなってしまうわけです。

 

神仏習合は、
神道と仏教の両立なので、
仏教の立場と神道の立場、
それぞれで考えないと
理解不能
なのではないかと思います。

 

上記の竹寺の場合も、
仏教側から見ると、
御本尊が牛頭天皇であるから
天台宗のお寺であり、
ここでは神道は滅んでしまったとみなすことも出来ます。

 

神道側から見ると、
山岳信仰輪くぐり
鳥居などは神道起源
神道固有の物なので
どう見てもスサノオを祀った神社なんですね。

 

◯〇山××寺と山号がありますが、
仏教の何処に
山岳信仰の由来があるのでしょう。

 

お釈迦様は、山に登って山頂に達した時、
悟りを得たという事でしょうか?

 

そもそも仏教の神様とは、
何なのだろう。

 

今は、お話しする余裕がないので省略します。

 

よく勘違いされるのですが、
仏教と山とは本質的に全く関係なく、
仏教に神様は居ません。

 

ここでは神仏習合の例として
竹寺をとりあげ、
神仏習合を理解する場合、
仏教と神道の両方を理解し、
両者の立場から考えないと、
極端な混乱を引き起こす
ことを指摘します。

 

神様と習合した仏教宗派・雑密

仏教神道の両方を理解し、
両者の立場から考えるのが肝心です。

 

まずは、神仏習合で習合した
仏教の宗派
を見てみましょう。

 

最初に神様と習合した仏教宗派は
雑密(ぞうみつ)と呼ばれるもの
です。
雑密とはいったい何なのでしょうか。

 

仏教伝来直後の仏教

仏教伝来直後
全ての人が仏教を理解できたように
思われています。

しかし、
完全に仏教を理解したのは
聖徳太子だけでした。

 

仏像を見た飛鳥時代の人々は、
これを神様の依り代と考え、
氏神祭祀を真似て氏寺を作り、
仏像の前で祖先を祀りました。

 

葬式仏教と言われている現在、
仏像の前でご先祖供養を
行うのは当たり前ではと思われるでしょう。

 

ですが、葬式をおこなうことが
仏教の本質ではなく、
この世の罪業苦難から
逃れることが仏教では重要
なのです。

 

氏寺は、後に菩提寺に
なっていきますが、
仏教からすると不本意に見えます。

 

仏教伝来直後、
仏教者が、まずやらなければいけなかったことは
布教」です。

しかし、庶民は神様を理解し、
祭祀を行うのが限界で、
仏教を学ぶ暇や余裕などありませんでした。

 

また、仏教は大陸の優れた
学問と見なされていたので、

布教する必要はない、ただ学べばよい」と

思われていたようです。

 

実際、東大寺を除く奈良時代の
南都六宗のお寺、
興福寺、元興寺、大安寺、薬師寺、唐招提寺では
盛んに仏教が研究されていましたが、
布教はそれほど行われていません。

 

仏教を盛んに広めようとした人たちは、
南都六宗のお寺には属さず、
雑密(ぞうみつ)と呼ばれる教えを信じていました。

 

この雑密を理解しないと
神仏習合が理解できない
わけなのです。

 

雑密とは

 

インドの仏教は、
小乗仏教(上座部仏教)と
大乗仏教に分かれます。

 

日本は大乗仏教がメインですが、
インドでは小乗仏教がメイン
です。

 

修業した者だけが救われるという
小乗仏教は、
一般の世俗人を仏教に誘い込むことが出来ず、
この反省から大乗仏教が発生
しました。

 

マイナリティー(少数派)の大乗仏教は、
教えを広めないと滅ぶ運命にあったのです。

 

そこで、価値観の異なるインド以外の
諸民族にまで仏教を拡げるため、
広く具体例の蓄積を行い、
悟りへの道を示す論理を
極度に普遍化抽象化しました。

 

この結果、大乗仏教は難解で、
まったく理解できないもの
になっていたのです。

 

庶民に全く理解できないという
行き詰まりを解決するため密教が生まれたという訳。

 

お釈迦様入滅後、数千年が経ち、
インドではお釈迦様の神格化が進行していました。

 

この初期密教(雑密)では、
お釈迦様以外にも
ヒンドゥー教などの神々を取り込み、
インドの土着信仰を仏教化し、
呪術的な修法、修業に重点が置かれました。

 

インドでは、ヒンドゥー教などの
神々を取り込んでしまった結果、
仏教自体がヒンドゥー教と見なされ、
仏教は滅んで
しまいます。

 

このように、雑密とは
マジカルな呪術に重点が置かれ、
普遍性や抽象性が欠けた物でした。

 

マジカルな呪術を中心としている点では、
神道と同じレベルだったのです。

 

神仏習合について・神身離脱とは

最初に神仏習合現象
現れたのは地方の氏神です。
大宝律令が施行された後、
地方の豪族は律令制度の行き詰まりに直面し、
様々な苦悩を抱えます。

 

豪族たちの苦悩

大宝律令が施行される以前、
地方の豪族たちは各自の氏神を祀り、
氏神の配下に支配地域にある
地域共同体の神々が支配されているとしました。

 

古墳時代の大和朝廷は豪族たちの
連合政権でした。

 

中国の優れた統治システムである
律令制度を導入するためには、
統一国家を形成しなければなりませんでしたが、
大和朝廷に地方の豪族たちを従わせるだけの武力はありません。

 

そこで豪族の連合政権は、
天皇の皇祖神は地方豪族の氏神を
支配していると主張し、
形式上、地方豪族を大和朝廷に従わせたのです。

 

律令制度が施行され、
租税が開始されました。

 

朝廷は、天皇が豊作を祈願した稲籾を、
延喜式内社の祈年祭などで
全国の豪族に幣帛として与えます。

 

同様に、地方豪族は、
支配地域をまとめる神社に
幣帛の稲籾を与えます。

 

この稲籾を田植えに
使用する稲籾に混ぜると豊作になると信じられ、
豊作が祈願された稲籾を使用した代わりに、
収穫された初穂の一部を税として納め
ました。

 

形式上、幣帛が貸され、
これを使用した代わりに税を納めたのです。

 

しかし、あまりにも税の取り立てが
厳しかったので逃げ出す者も居ました。

 

また、豊作になった場合、
農民や豪族が税を納めても収穫物が余り、
これが私有財産になりました。

 

私有財産が溜まると、
朝廷の幣帛を必要としなくなったり、
庶民の間や庶民と豪族の間で
格差が発生したりして律令制度は行き詰まり
ます。

 

庶民の間で格差が発生すると、
富んだ農民は私有地を耕して勢力を付け、
豪族の支配を脅かしました。

 

また、私有地を所有する事自体、
律令制度の崩壊につながったんです。

 

豪族が税を私物化すると、
庶民が反抗したり、
逃亡したり、豪族が税をすべて
朝廷に納めると豪族の勢力が低下し、
他の豪族との勢力争いで敗れる恐れがありました。

 

このため私財蓄積など
格差が生じる行為は朝廷が
厳しく取り締まらなければならなかったんですね。

 

しかし、
あまり成功しませんでした。

 

このように神道を
土台とする律令制度が行き詰まると、
豪族たちは神道以外の仏教に普遍的価値を
見出そうとしたんです。

 

また、仏教が広まるにつれ
私財の所有は罪業であると
信じられるようになりました。

 

豪族たちは神道に嫌気がさし、
仏教で救われたいと願うようになったんですね。

 

神身離脱と神宮寺の出現

最初の神仏習合は、
地方豪族たちの仏教に帰依したいと
願いを雑密が叶えるという形で起こりました。

 

多度大神の例は、
詳しい史料が存在するのでよく採り上げられます。

 

763年、神社の東側に
満願禅師が住んでいました。

 

ある時、ある人が神様の
お告げを聞きました。

 

私は多度大神である。長い間に渡り、重い罪を作ってきたが、
やはり神として存在している。
今こそ、神の身を離れ仏教に帰依したいと思う。

 

と告げたのです。
これを聞いた満願禅師は、
神社の南側にお堂を建て、
多度大神の像を菩薩形に彫り上げ安置しました。

 

これが多度神宮寺の始まりです。

 

このように、
神様も人と同じように苦悩を抱え、
仏教に帰依し救われたいと願うことを神身離脱
と言います。

 

神身離脱での神宮寺とは、
威力が衰えた神様を仏教で救い守るため、
神社の近くに建立された寺院の事。

 

そして多度大神のお告げは、
神様のお告げというより
豪族の本音だったと考えられています。

 

皇祖神に従い地域共同体の神を支配する
神道体系から離脱したいとする神様の願いは、
律令制度による支配体制から離脱したいと
いう豪族の願い
だったのです。

 

多度大神以外にも、
越前国気比大神、若狭国若狭彦大神、
近江国奥津島大神など多くの神様が
仏教に帰依したい旨の意思を示をし、
神宮寺が建てられました。

 

各地に神宮寺が建てられると、
次に神様の前でお経を読む
神前読経が盛んに行われる
ようになります。

 

神様の前で読むのは祝詞ですが、
神仏関係が大きく転換すると、
神様は仏法やお経を悦ぶ
と考えられたのです。

 

コメント